ベトナム映画「ハイ・フォン」で学ぶベトナム語~人称にみる母娘の関係性~

Netflix(ネットフリックス)で、2019年2月にベトナム現地で公開されたNgô Thanh Vân(ゴー・タイン・バン)主演の映画「ハイ・フォン(原題:Hai Phượng、英題:Furie)」が配信されるとのこと。配信開始は2019年5月22日。Netflixでの日本語タイトルは「ハイ・フォン: ママは元ギャング」。

ベトナム映画「ハイ・フォン」Netflixで5/22配信開始

この日本語タイトル、「ハイ・フォン」は原題のままなのでよいとして(Phượngの発音は「フオン」か「フン」が近いけれど)、「ママは元ギャング」がちょっと衝撃です。娘は「ママ」というイメージで母親を呼んでいたかしら、とか、「元ギャング」ってそもそも「ギャング」だったかしら、むしろ裏社会にいるのは現役?とか、色々と考えてしまったのでした。

ここでふと、映画の中で娘のMai(マイ)が母親のHai Phượng(ハイ・フオン)のことを、「お母さん」を意味する「mẹ(メ)」でも「má(マー)」でもなく、あえて「ý(イー)」と呼んでいたことを思い出しました。

映画を観ている最中は、「mẹ」とも聞こえず、じゃぁメコンデルタ地方に住んでいる設定なので「má」かな?と思ってよく聞いてみるもやっぱり違う。「ニー」か「(南部なまりの)ジー」か「イー」に聞こえるのですが、私の脳内ベトナム語単語帳にはない。帰って色々調べてみたら、「ý」という呼び方があることが判明。しかも使われる地方やシーンも限られるらしい。

さらに、ベトナム現地紙でも映画「ハイ・フォン」の中であえて「ý」が使われていることについて解説した記事が出ているのを発見しました。ということで、現地紙の記事を参照しつつ、ベトナム語の人称代名詞(xưng hô)から、映画「ハイ・フォン」の母娘の関係性をみてみたいと思います。

ベトナム語の「お母さん」は「mẹ」だけじゃない

ベトナム語で「お母さん」というと、北部を中心によく使われる(テキストなどにも載っている)のが「mẹ(メ)」。南部では「má(マー)」、中部では「mạ(マ)」と呼んだりもします。このほか、時代や地域によって「mợ(モ)」「me(メー)」「măng(マン)」「bu(ブー)」「bầm(バム)」「u(ウー)」などと呼んでいたことも。

ただし、こういった人称代名詞を紹介するベトナム語のウェブサイト(Wikipedia含む)では、「ý(イー)」についてはほぼ扱われていません。(※ベトナム語の「ý」の意味を調べると「イタリア(=伊)」や「意」が出てきますが、これはこれで、人称代名詞とは別の用法です。)

映画「ハイ・フォン」での母娘の描写

映画「ハイ・フォン」では、母親はシングルマザー。手段を選ばない、腕っぷしの強い取り立て屋。ボスの理不尽さにいらつきもするが、何としてもお金を稼いで、女手一つで娘を育てていかなければならない。家ではぶっきらぼうながら母親らしく料理などしてみるもうまくいかず。心身ともに強い女性で、母親役と父親役を兼任し、娘にも強い人間であって欲しいと願うあまり、厳しく接する。でも、誰よりも何よりも、娘のことを愛している―。

一方の娘は、母親の仕事ゆえ、そして母子家庭であるがゆえに学校でいじめられ、母親に対して堅気の仕事をして欲しいという気持ちと、反抗心もある。でも、母親が料理がへたくそなのを見越して別のメニューを作っておいたりするしっかり者。母親に甘えたいけれど甘えられない(甘えさせてもらえない)、素直になれないながらも、母親のことは愛している―。

…という感じ(個人の見方です)。お互い大切に想い合っているけれど、不器用な母娘関係で、いわゆる「仲良し母娘」ではないわけです。

人称代名詞「ý」のベトナム現地紙による解説

さて。ここで、娘のマイが母親のハイ・フオンのことを「お母さん」ではなく、「ý(イー)」と呼んでいることについて、現地紙による解説をご紹介します。

この「ý」という人称は、一部のベトナム人にとっても聞きなれないものとのこと。ゴー・タイン・バンは、映画を通じてベトナムの文化の美しさやおもしろさを伝えたいという想いが強く、映画「ハイ・フォン」の中でも随所にこれが表れています。そのひとつが人称代名詞。

メコンデルタ地方では、人称は関係性の親密さ(特に血縁関係)に重きを置くことが多く、礼儀的または堅苦しい呼び方はあまりしません。

メコンデルタ地方で使われる二人称代名詞として、

  • 「chế(チェー)」(=姉)
  • 「hia(ヒア)」(=兄)
  • 「tía(ティア)」(=父)
  • 「ní(ニー)」(=友達)
  • 「ý(イー)」(=おば)

などがあります。ただし、メコンデルタ地方の中でも使われる地域(省)は限られるそう。
これらの語の起源は、この地域の土着の話し言葉に中国語とカンボジア語が混ざったものとのこと。こういった地域間の交渉からメコン川エリアの人称代名詞が多様化した、と記事には書かれています。

映画に出てくる「ý」は、上記の一番下の「おば」を意味するもの。標準的なベトナム語では「dì(ジー)」がこれにあたります(南部では特に母方の伯母を指す)。かつてのメコンデルタ地方では、「ý」はすなわち「母方のおば(母親の姉または母親の妹)」に対する人称代名詞でした。そうすると何故、映画の中では「娘」が「母親」のことを「おばさん」と呼んでいるのか。

記事によると、(親が)育てることが難しい環境にある子供、もしくはいわゆる「常識」とは異なる境遇に生まれた子供(映画の中の娘のように、望まない妊娠で生まれた子供など)の場合、母親は子供のことを「自分の子供」と考えず、自分のことを「mẹ(=お母さん)」とも呼ばず、「ý(=おばさん)」と呼んでいた、とのこと。

ただし、これは感情的なもの(自分の子供だと認めたくない、など)ではなく、この地方の観念によるもので、難しい境遇に生まれた子供に対してこのような人称代名詞を使うことにより、子供が健康に育ち、幸せになり、育てやすくなる、と考えられていたからなのだそうです。

記事ではこの「おばさん呼び」について、「脚本中のほんの一部に過ぎないが、(この人称代名詞を使うことにより)観客はLê Văn Kiệt(レ・ヴァン・キエット)監督とゴー・タイン・バンの細部に至るまでのこだわりがみてとれるはず」と評しています。

ちなみに娘のマイ役のMai Cát Vi(マイ・カット・ヴィー)ちゃんは、映画の外でもゴー・タイン・バンのことを母親のように想っていて、「ý」と呼んでいるのだそうです。

ソース:
“Ý” trong Hai Phượng: Thú vị về sự khác biệt trong văn hóa xưng hô của người Việt
(訳:ハイ・フォンの中の「イー」:ベトナム人の人称文化における違いの面白さ)

まとめ

映画「ハイ・フォン」では、娘のマイは母親のハイ・フォンをいわゆる「お母さん」ではなく、特別な意味での「お母さん(おばさん)」と呼んでいた―。たった一語ではあるものの、これにより、母娘の境遇と微妙な関係性、そして強い愛情が表されていた、というわけです。

もともと時代や地域、関係性、シーンなどによって様々な使い分けをする人称代名詞ですが、だからこそ、ベトナムの映画やドラマを観るときに人称代名詞が重要なキーワードになったりもします。例えば一家の関係性として、祖父母が父方なのか母方なのか、おじが伯父なのか叔父なのか、また父方なのか母方なのか、おばが伯母なのか叔母なのか、また父方なのか母方なのか、誰が長男で長女で次男で次女なのか、誰が婿なのか嫁なのか、などなど。ここの訳が正しくないと、ストーリーがわからなくなったり、はたまたおもしろさが伝わらなくなったり…。

相手の呼び方も色々ですが、相手に対する自分の呼び方も色々です。地方、性別、年齢、血縁関係によって本当に様々。ベトナム語の学習において人称代名詞はハードルが高いとされがちですが、私はこのハードルを超えてしまえばベトナム語、ひいては映画やドラマの理解度が一気に上がる!と信じています。人称代名詞については私自身も網羅できていないので、改めて調べてまとめてみたいと思います。

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